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2014年8月20日 (水)

自分をもっと理解しなければいけないのか?そうでないのか?

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つい先日のこと


「自分をもっと理解する必要がある」という言葉に出会った。

・・・私も以前はそう思っていた。

自分を理解しなければならない。

人を理解しなければならない。


そう渇望していた。

人は理解できるものではないということを

頭で知ってはいたが、「理解できない」という名の不快が

自分と他人を理解しようとする衝動へと駆り立てた。

しかし、今はもう、自分をもっと理解しようとか

人をもっと理解しようとか、そんなことは渇望していない。

なぜなら人は、人を理解することなどできないから。


私は自分のことを理解することなどできないから。


人の世界は一瞬たりとも同じ時はない。


常に理解できないことばかりが生じているのが人の世界だ。

諸行無常である。

そうした人の世界で、自分や他人の理解をどれほど渇望したところで

それを理解することはできない。


・・・できるのは、理解したつもりになることだけだ。

釈迦はかつてこの世を「一切皆苦」と呼んだ。

そう、まさにそのとおり

愛情が「一切皆苦」という言葉を生じさせた。


一切皆苦の世界で、わざわざ苦しみを見出す必要などない。


というよりも、一切皆苦の世界で苦しみを見出すことはできない。

白しかない世界で白を見出すことはできない。


白しかない世界で、赤を見出すからこそ、白を見出すことができるのである。

自分を、他人を

理解できない不快の衝動から


自分に、他人に

どれほど理解を求めたとしても


残念ながら理解はできない。


できるのは、理解したつもりになることだけだ。

それが分からない間は、

”自分が理解した”という幻想の中で

理解できないという名の不快を見出し続けながら

永遠に理解を求め続けることになる。


しかし、他人に対して、もしそれを咎めるようなことがあれば

それほど馬鹿らしいこともない。

まるで草木や獣に息をするなと言うようなものだ。

この世は所詮、一切皆苦だからこそ

人は、私は、いつでも理解したつもりになれるのである。

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